人と同じ道は歩かない:王遠杰が回り道の途中にいる人に贈る物語









Credit: IG/@903yywong
要約
- •「歪歪(YY)」の名はアニメのネズミ Why Why に由来する。だが彼はいつしか、その「歪」の字のとおりに生きるようになった。人の真似はせず、遠回りを選んででも、予想されやすい道は歩かない。
- •マイクの前では元気いっぱいの司会者だが、素顔は内向的で人一倍敏感。その敏感さを理解してからは、特質はむしろ人とつながる能力になった。
- •初の恋愛短編集『心跳行星8520 —— 仍在兜圈的人』(ハートビート・プラネット8520)は、恋を手放せない人へ。物語は問題を解決するとは限らないが、自分を見つめ直させてくれる。
最初から、自分の歩くべき道を知っている人ばかりではない。
成長の途中で、少しずつ気づいていく人がいる。人と同じではいたくない。いちばん予想されやすいやり方で創作したくない。口にできない感情を、行き場のないまま抱えつづけたくもない。だから彼は話し、書き、創作を始めた。心の中の複雑で、敏感で、ぐるぐると巡る想いを、さまざまな方法で、ひとつまたひとつと物語に編み直していったのだ。
王遠杰(ワン・ユンキット)こと YY にとって、「歪歪(YY)」という名前に、最初はさほど深い意味があったわけではない。
小学四年生になる前、彼は Jackie と名乗っていた。だがこの名前も、いや、どんな英語名も、本当の自分を表せていない気がずっとしていた。ある日テレビをつけると、アニメの中にすばしこいネズミがいて、その名を Why Why といった。彼はこの名前を手元に残した。のちに Why Why は YY と略され、ラジオ局に入ってからは、創作界の先輩たちと名前がかぶらないよう、表記を「歪歪」に改めた。
この名前は、もともと自分の性格とは何の関係もなかった、と彼は言う。だが振り返ってみて、初めて気づいた。自分はいつのまにか、「歪」というこの名前のとおりの人間に育っていたのだ。
人の真似はしたくない。ときに奇想天外で、ときに王道を外れ、ときには遠回りを選んででも、予想されやすい道は歩きたくない。DJ、司会、作詞、そしてエッセイや小説の執筆まで、王遠杰はさまざまな肩書きのあいだで自分の声を探しつづけてきた。そして、回り道にしか見えなかったその過程は、のちに彼の創作にとって何より大切な養分となった。

ラジオから、創作の生まれる場所へ
YY と放送の出会いは早かった。
小学生の頃、母親がつけたラジオから、子ども司会者を募集する番組の告知が流れてきた。それが放送との出会いだった。やがて彼は、司会というものの面白さに少しずつ目覚めていく。そして香港商業放送(商台)に憧れるようになった。そこはただ話すための場所ではなく、香港のクリエイターを育んできた場所だったからだ。
「話せる人」になるより、「創作できる人」になりたかった。
だから彼にとってマイクは終着点ではなく、入口だった。声は言葉を運び、言葉は思想を運ぶ。番組も、歌詞も、エッセイも、小説も、出口が違うだけだ。本当に大切なのは、自分が口にし、書き記したものを受け取った誰かが、聴き終えたあとに何かをひとつ持ち帰り、少しだけ心が軽くなっていることだった。
だが、創作は思っていたほど気楽なものではなかった。
とりわけそれが毎日発生する仕事になると、インスピレーションはもう、ときおり舞い降りる贈り物ではない。毎日提出しなければならない宿題になる。

マイクの前の元気、その裏にある繊細さ
番組や公開イベントでの YY は、いつも元気に満ちている。
場を盛り上げ、ゲストと軽妙に語らい、声ひとつで現場を支えることができる。多くの人が見ているのは、反応が速く、エネルギッシュで、表現に長けた司会者の姿だ。だがその裏にいるのは、内向的で、人一倍敏感な人間である。
ハイエナジーな本番の前には、入念な心の準備と、事前の十分な休息が欠かせない。かつて彼は疑ったこともある。自分のような人間は、絶え間ないアウトプットと瞬時の反応、そして人前に立つことを求められる仕事に、そもそも向いていないのではないか、と。
のちに専門家に相談して初めて、彼は自分の敏感さを捉え直すようになった。
高い感受性は、ただ消耗をもたらすだけではない。場の空気を読み取りやすくし、ゲストの状態をいち早く察知させ、相手と自然につながることを可能にしてくれる。かつて自分を疑わせたその特質は、能力にもなり得たのだ。
これは大きな転換だった。
自分を別の人間につくり変えるのではない。ありのままの自分もまた、創作と仕事の力になり得るのだと、彼は少しずつ学んでいった。

毎日創作し、毎日疑う
この世界に入ってすぐ、YY は悟った。創作は、外から想像されるほどロマンチックなものではない。
毎日番組をつくり、毎日話題を考え、毎日新しい何かを差し出さなければならない。創作力はいつか涸れてしまわないだろうか。今日の内容は十分に良かったのか。自分は実のところ、思っていたほどこの仕事に向いていないのではないか。
先輩 DJ に弱音を吐いたこともある。あとになって知ったのは、そう感じているのが自分ひとりではなかったということだ。
創作のいちばん残酷なところは、次の花が咲くかどうか永遠にわからないまま、それでも自分を創作の状態へ押し戻さなければならないことだ。それはロマンチックであり続ける営みではない。多くの場合それは消耗であり、自分に正直であることを強いるプロセスである。
だから YY の創作は、揺るぎない自信に満ちた状態から生まれているわけではない。
より正確に言えば、しょっちゅう自分を疑う人間が、それでも毎日つくることを選んでいるのだ。疑いは消えないまま、彼は書きつづけ、話しつづけ、頭の中をぐるぐると巡る想念を、番組に、文章に、物語に変えつづけている。

いちばん孤独だった日々、言葉が出口になった
楽しいときには、あまり書かないのだと YY は言う。
彼にとって最も深く刻まれた創作の時期は、アメリカのワシントンD.C.に留学していた日々だ。毎朝十時に授業を終えると、ひとりであてもなく歩き、地下鉄に乗り、適当な駅で降りて、疲れ果ててからようやくアパートに戻った。
孤独な日々だった。しかし同時に、とても自由だった。
未来に憧れ、未来を恐れた。アメリカのいろんな街を巡りたいのに、牛肉麺一杯すら食べられないほど金がなかった。ひどく寒いある日、彼はひとり街を歩きながら涙をこぼし、その手でスマートフォンに文章を打ち込んでいた。
その瞬間、言葉は作品でも、成果でもなかった。言葉はただ、彼が自分の感情に呑み込まれてしまわないための支えだった。
のちに彼はエッセイ集『那天我走上了歪路』(あの日、僕は歪んだ道を歩き出した)を出版する。収められた文章の多くは、生活の中ですぐには消化しきれなかった想いから生まれたものだ。彼にとって書くことは、自己表現である以上に、生活を消化する方法に近い。多すぎて、雑多すぎて、敏感すぎる感情を書き出して、ようやく少しの余白が生まれ、生活をつづけていける。

エッセイから小説へ、自分を登場人物に隠す
エッセイ集『那天我走上了歪路』を出版したとき、YY は実のところ、自分自身を整理していた。
毎日、分かち合いたい想いがあふれているのに、そのとりとめのないつぶやきを最後まで聞いてくれる相手はいなかった。Instagram に写真を一枚、ひとことふたこと添えるだけのつもりが、書くほどに長くなり、一篇の文章になり、結局投稿されないまま終わる。
あのエッセイたちは、彼が生活を消化していく過程そのものだった。
だが、語りたいことは次第に重くなり、一人称のまま直接吐露しつづけたくはなくなった。そこで彼は小説を書き始めた。自分を分解し、さまざまな登場人物の中へ振り分ける。どれが彼自身の経験なのか、どの人物が本当の彼にいちばん近いのか、読者にはわからない。その距離があるからこそ、かえって多くを語れるのだ。
小説はエッセイより難しく、より苦しい。それでも彼は知っている。書くことには練習が必要で、重荷を背負ったまま進みつづけることも必要なのだ、と。
こうして彼はエッセイから小説へと歩を進め、自分を整理する書き方から、多くの人が口にできずにいる感情を書き記す方へと、少しずつ向かっていった。

恋愛を書くのは、手放せない人をあまりに多く見てきたから
『心跳行星8520 —— 仍在兜圈的人』(ハートビート・プラネット8520)は、YY にとって初めての恋愛短編小説集だ。だがこれは、恋愛だけの本ではない。
ラジオ番組の中で、彼は数多くの香港の人々の恋愛経験を聴いてきた。長年、暴力的な関係に囚われている人。パートナーに身体のことをなじられる人。恋人のために借金をし、貯金を使い果たしてしまう人。
彼を最も戸惑わせたのはこうだ。尋ねているのは確かに恋愛の物語のはずなのに、思わず問い返したくなる。愛は、どこにあるのか、と。
傷を語るとき、彼らは涙を流し、怒り、歯を食いしばる。それでいて誰ひとり例外なく、恋の始まりの姿を覚えている。愛し合っていた証拠を懸命に探すその姿は、大切にしていたカップを割ってしまった人のようだ。切り傷を負うとわかっていながら、それでも素手で破片を拾い上げようとする。
そんな人たちこそ、彼の筆が描く「いまも回り道の途中にいる人」なのだ。
痛みを知らないわけでも、離れるべきだと理解していないわけでもない。ただ、人の心はときに、ある種の引力に捕らえられる。本当に抜け出すまで、同じ問いへ何度でも戻ってくるしかない。あの愛は本物だったのか。どうしてこうなってしまったのか。あのとき別の選択をしていたら、違う結末があったのだろうか。
YY は、彼らの代わりに答えを見つけようと急がなかった。
ただその戸惑いを物語に書き、手放せず、口にできず、誰にも説明できない感情に、見つけてもらえる場所をひとつ用意しただけだ。

問題は解決しなくても、物語は自分を見せてくれる
YY はかつて番組で、『送信的白鴿』(手紙を運ぶ白鳩)という恋愛ラジオドラマを放送したことがある。
物語の中で、白鳩は水道管を壊しさえすれば食べ物が手に入ると信じ込んでいる。この設定が暗喩するのは、恋愛の中で、何かをすれば、あるいは何かをしなければ、去った恋人の心を取り戻せると思い込む人の姿だ。最後になってようやく、その人は理解する。愛の中で自分にコントロールできることは、実はとても限られているのだと。
放送後、あるリスナーからメッセージが届いた。失恋したばかりの自分が、この物語のおかげでふっと目が覚めた、という感謝の言葉だった。彼女はもう占いにすがらない、未練がましく追いすがることもしない、と決めたのだ。
YY にとって、それはとても大切な反応だった。
彼の書く物語は多くの場合ひかえめで、感情をあからさまに語るとは限らない。それでも、ひとりのリスナーが物語の中に本当に自分自身を見つけ、物語をきっかけに少しだけ自分を許せるようになったとき、彼はいっそう確信した。創作とは、自分の考えを語ることだけではない。誰かがいちばん行き詰まっているとき、その傍らで一緒に少し立ち止まることもできるのだ。
物語が問題を解決してくれるとは限らない。
けれど物語は教えてくれる。こんなに痛くて、こんなに割り切れなくて、いまだに回り道をしているのは、自分ひとりではないのだと。

彼自身も、回り道の途中にいる
YY は回り道の途中にいる人を書く。だが彼自身も、傍らに立って他人を眺めているだけの人間ではない。
商台があるのは九龍塘のブロードキャスト・ドライブ(廣播道)だ。インスピレーションが湧かないたび、彼はその界隈をぐるぐると歩き回る。そのうちいつしか、歩き回らなければひらめかない体になってしまった。
一時期、彼は毎週ひとつ物語を書き、それを半年あまりつづけた。あの日々、ぐるぐると歩くことは身体の動作である以上に、創作の状態へ入るための方法だった。机の前に座ったからといって、すぐに何かが書けるとは限らない。だが身体が動き出すと、混乱していた想念がかえって少しずつ浮かび上がり、繰り返される足取りの中で、ある種の感情は輪郭を帯びてくる。
道をぐるぐると巡る時間は、一見なんの進捗もないようでいて、行き詰まった状態から自分をほどく機会を与えてくれる。物語の書き出し、登場人物の反応、あるひとことの台詞。それらはときに、こうした回り道の中からゆっくりと現れてくるのだ。
だがやがて、彼は自分の創作の型が繰り返しになり始めていることに気づく。それもまた、もうひとつの堂々巡りだった。
ひとつの書き方に慣れすぎると、創作はたやすく惰性に変わる。だから彼は、自分に別の書き方を試すことを課し、同じ安全地帯に留まらないようにした。YY にとって本当に危険なのは、回り道そのものではない。回りつづけた果てに、自分がただ繰り返しているだけだと、自分自身でさえ気づけなくなることだ。
だから彼にとって、回り道は必ずしも行き詰まりではない。
ときに回り道は、観察であり、待つことであり、答えが現れるまでのあいだ、それでも自分を前へ進ませつづける方法なのだ。

迷いは消えない、それでも書きつづける
いまの自分をひとことで表すなら、と問われて YY が選んだ言葉は「迷い」だった。人生の意味とは何か。限りある命で、いったい何をすべきか。人類はどこから来たのか。宇宙人はいるのか。死んだらどこへ行くのか。そんなことを、彼は考えつづけている。
八年前、入りたての頃、彼は自分を手探りしていた。八年後のいまも、まだ手探りの途中だと彼は言う。
だがこの迷いは、彼を立ち止まらせなかった。むしろ、創作をつづける理由になった。まだ問いが残っているからこそ、書く必要がある。まだ抜け出せていないからこそ、回り道の途中にいる人に何が必要かがわかる。自分にも答えがないからこそ、他人の人生に軽々しく結論を下さずにいられる。
おそらくそれこそが、彼の創作のいちばん胸を打つところだ。
彼はゴールに立つ人ではないし、すべての戸惑いを抜け出した人でもない。ただ多くの人より少しだけ、立ち止まることを厭わないだけだ。戸惑いの形をよく見つめ、それを物語に書き、同じように回り道の途中にいる人へ届ける。
歪んだ道であれ、回り道であれ、すべての道が明確な答えに通じているとは限らない。
それでも YY は信じている。生は広さだけのものではなく、深さのものでもある。足取りが何度も何度も重なれば、地面に刻まれる轍はどんどん深くなっていく。前へ進んでいないように見える時間もまた、人を自分自身へと近づけているのかもしれない。
だから、いまも回り道の途中にいて、いまも方向を探しつづけているすべての人へ、彼は伝えたい。
「回り道を楽しもう。」
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